運命の上路越え
先日、久々に東京へ行ってきた。
何をしに行ったかと言えば、まあ、お能を見にいったのだが。
演目は「山姥」。初めて見る曲だ。
小書きは「白頭」。
大好きな能楽師さんがシテを務めたのだが、予想を超える充実ぶりで、驚くとともに感動した。
もともと気品と迫力が同居しているような女性の役がはまり役だなあと思っていたのだが、その、彼の人らしい部分が今回の山姥においてもバッチリ生きていた。
難しい役だと思うのだが、それこそ山姥の住むような深山の如き奥深さを見事に体現していて、観客に簡単に分かったふりをさせない力のある舞台だった。(お蔭で私など、あれを見て以来いろいろぐるぐる考えてしまっている……)
ご本人は決して大柄な方ではないのに、舞台上の山姥は非常に大きく見えた。面(おもて)も今回、よいものをかけていたという話だが、面自体の力もあってか、謡の文言どおり本当に目が星のように輝いて見えたのだ。すごい!
(思うに、去年あたりから、何を演じてもこの方の演技は感動的にすばらしいのだが、もしかして、彼の中で今が最高の時期だったりするのだろうか? そういうところに私は居合わせているのだろうか?)
狂言と能の前に、能に造詣の深い歌人の馬場あき子さんによる『山姥』の解説があったのだが、これもじつに出色の出来。さすがにあの『鬼の研究』(ちくま文庫)を書いた人だけのことはある。(余談だが、『鬼の研究』は、私の個人的な読書歴の中でもかなり重要な位置を占めていたりする)
「本物の山姥に出会ってしまった百萬山姥は、その後どんな気持ちで善光寺へ参詣したのでしょうか?」という馬場さんの問いかけの答えを、私はきょうもまだ考えつづけている。
いったい、百萬山姥は、都に戻って、また山めぐりの舞を舞えたのだろうか……?
舞えるとしたら、彼女はどんな人物なのか。何をどう考えたのか。
舞えなかったとしたら、彼女はその後何を舞うのだろうか。何も舞えなくなってしまうのだろうか。
幾通りもの後日談が考えられそうで、妄想癖のある私にはありがたい材料と言えばそうなのだが。
しかし、どうにもこうにも。
……。











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