2008年7月24日 (木)
2008年7月22日 (火)
ただいま反省中
普段の仕事や生活の中では、「簡単には答えが出しづらいな」と思う物事があっても、「とりあえず・便宜的に・暫定的に、答えはコレ!」と決めてしまわないと、何ごとも進まないので、ともかくもそうやって暮らしているわけだが。
日常の雑多なことで忙しいからと言って、ずーっとそのやり方だけで済ましていると、自分の中が薄く、貧しく、すかすかになってしまう、というのが実感。
あくまでも個人的な観念ではあるが、「そもそも命題が難しいので、すぐに結論を出さずにおいて、折々それについて考え、考え、考えて、一年経っても、二年経っても、五年経っても相変わらず考えている命題がある」という状態でないと、私なんぞというものは、紙より薄っぺらなものに簡単になってしまう――と思う。
この場合の“保留”というのは逃げや拒否や放置ではなく、突きつめて考えるに値する“面白くかつ重要な問題”を楽しみ、あるいはそれによって悩むための猶予を自ら設けた、という、正当な余裕の現れの態度である……はずで。
大人になって以降、いくつか、私の中にはその手の命題があるのだが、最近、日々の忙しさに流されて、それらの存在をすっかり忘れていた。
茂木健一郎さんの本を読んで、思い出した。
で、「人間、考えることで楽をしてはいけないのだよなあ」と、ただいまつくづく反省中。
2008年7月17日 (木)
明らかに視覚優位
自分の記憶力に非常に不安があるので、私はつねにメモ魔だ。
スケジュール帳も卓上カレンダーも大好きだ。
何ごとも文字で書きたがるのは、私がかなり視覚優位の人間であるため、文字にして見たほうが情報の整理もしやすいし、印象にも残りやすい、という理由もあると思う。
そう、自分は明らかに視覚優位のタイプだと思う。
視覚と言語もかなり密接に結びついている。ゆえに、すてきな絵やすばらしい景色を目の前にしたときに、目に映るものを全てその場で言語化している(勿論声には出さないが)自分に気がつくこともある。
聴覚や触覚、味覚、嗅覚などを使っていないわけではないが、飛び抜けて活用しているのは恐らく視覚。
次は嗅覚かな。においは、意識することが多い。
で、その次が多分、聴覚。
味覚は、それなりに利くが、意識の前面に登場してくることは少ない感じがする。
触覚なんて最後の最後だ。目に見えた“質感”を言語化してしまうとそこで満足してしまうからか、実際に「触ってみたい」という欲求が低いような気がする。……よくない傾向か?
2008年7月 8日 (火)
2008年6月30日 (月)
『六月の電話』感想
土日は、予定どおりとろんぷ・るいゆの公演のお手伝いにいってきた。
私自身はゲネプロを見せてもらったのだが、たいへん面白く、ついでに、いたずらに(?)創作心まで刺戟されてしまった。
(仕事の小説では、そんなに複雑なモノは書かせてもらえないし……)
作品は、別役実の『六月の電話』。
あらすじ等は割愛して、好き勝手に私の感想や考えたことを書くと――。
(※注意:ネタばれあり)
今回のお芝居は、全共闘の時代に青春を過ごし、その記憶を今に引きずる(と言うよりは“その時代に囚われる”か)女の“その後”の物語であるがゆえに、見る人(観客一人一人)の背景(生まれ年代や、成長のあいだの経験など)が感じ方に大きく影響するのではないかと思った。
ちなみに私は七〇年代半ば生まれだが、そんな私の感覚には、「公安」「鉄パイプ」といった言葉は戯画に感じられてしまった。
それよりも真剣に気になったのは、主役である女性の生きる“今”(お芝居の中での“今”なので、九〇年代だが)。
彼女は“今”をどうやって生きているのか、ということ。
お芝居の中で、彼女はその答えを言っているわけだが、確かに、時間がきたら決まったことをするという繰り返しによって日々が送れるというのは本当であろうし、彼女の生活の七~八割はそれで埋まっているだろう。
しかし、残りの二~三割をどうやって昇華させて――あるいは消化して――いるのか、私にはそちらのほうが興味深い。
ふと、自分をこの目に追いやった「彼」のことを考えてしまうとき。
ふと、「自分の人生これでよかったのか」と思ってしまうとき。
ふと、やがてやってくる自分の死の場面を空想してしまうとき。
ふと、すべてが始まる前の、両親や家族に愛されて幸せだった少女のころの自分のことを思い返してしまうとき。
彼女に、自分たちの過ごした“あの時代”への内省というようなものは、一体、あるのだろうか?
もしあるとすれば、それは誇らしい方向へなのか、恥じ入る方向へなのか。
途中で評価が変わったということもあるかも知れない。
そうだとすれば、そのターニングポイントはどこだったのか、何がきっかけだったのか。
……
私を含む凡人にとっては、“時代の限界”というものは多かれ少なかれ当たり前にあるものだと思う。
(ごく個人的な意見としては、それを自覚的に捉えて、そこに何らかの自覚的なスタンスで相対しないと、世の中を見る目が曇るというか、偏るような気がしている)
ラストで、彼女は「さよなら」と言う。
いくつかの意味を重層的に含んでの言葉。
そして、このラストシーンをどう捉えるかは、見た人によって違うのではないか。
彼女の言葉や表情をそのまま受け取れば、訣別・解放ともとれる。
しかし、彼女はここまでのあいだに、“素直な人間ではない”ことを観客に披露している。
であれば、「あれが彼女の本音であるとは簡単に言い切れない」という見方もあるだろう。
だとすれば、ラストシーンは、さらなる執着・束縛へとつながる入口であるかもしれない。
あるいは、解放されたがゆえに、かえって“自分の失った二〇年間”を惜しむ気持ちが押し寄せてきて、新しい別の苦悩に囚われる未来もあるかも知れない。
……個人的には、自分の気分や体調によって、見る都度ラストの捉え方は変わるだろうなあと思った(笑)。
自分自身が前向きな気分のときには、解放された彼女の明るい未来を空想し、自分の心身の体調が悪いときには、いわゆる“鬱エンド”を空想するに易い(笑)。
と、いうようなことだったのだが。
あ、そうそう。
最初にアリバイ屋が彼女の写真を撮るシーンが好きだった。女優さんのチャーミングな本質が現れていて、本筋と関係ないのに異様に印象に残るシーンだった(笑)。
なお、一度見ただけで台本など参照せずに書いているので、細かな点が間違っていたらごめんなさい。
2008年6月 6日 (金)
本当は何が好きなのか
以前、家具屋の取材でたくさんの家具を見たときにも思ったのだが。
同じ種類のものが大量に並んでいると、自分が「本当は何が好きなのか」が分かるようだ。
数が少ないと、「AよりはBが好き。BよりはCのほうがもう少し余計に好き」という相対的な見方をしてしまうために、「じゃあ、とりあえずCを買っておこう」ということが出てくるが、ABCDEFGHIJKを一遍に見ると、「Cなんか目じゃないくらい自分はGが好きだ!」というのが分かって、めでたくGを買うことができる。
どうしてそんなことを思ったかというと。
過日、『日本絹の里』で、たくさん並んだ着物や反物を見たからで。
それだけを見ると、絞りや大島も「いいわ~」と思うのだが、それ以外のものがいっぱい並んでいる中で見たら、私の目は絞りも大島もスルーした(苦笑)。
琉球紅型も高崎捺染も秩父銘仙も横目で見て、展示室をぐるぐるした挙げ句、足が止まって動かなかったのは、総柄の友禅。
友禅!
そうなのか……と思った。
そう言えば、むかし衝動買いして、今でも一番気に入って着ている訪問着も手描き友禅だ。
そうか。
そういうことなのか。
* *
ところで、きょうの写真。
じつはアリが主役(要拡大)。
(どうでもいいか……)
2008年6月 4日 (水)
辛気くさい話
うーむ……。
設定勝負!の物語が書ける作家さんにとてもとても憧れる。
たくさんの読者がついたり、あらすじ買いが望めるのは、そういうタイプの本だよなあと思うので。
エンタメとして高評価を得るのも、多分そっち系だろうし。
自分がいつもやっているような、エピソードが次のエピソードを呼ぶ作りだと、どうしても地味だ。
このやり方のほうが濃密に書き込めるモノがあって、多分、自分はそっちに(無意識のうちに)重きを置いているので、こうなるんだろうとは思うが。
“関係性萌え”かつ“構造オタク”だからなあ、自分……。
そういうのを追及したくなってしまうのだ。
以前、私の小説を評して「錐体の中に球が収まっているよう」と言った人がいたけれど、今思えばあれは言い得て妙だったかも知れない。
……大ヒット……って、うらやましい言葉だ。
お金どうこうじゃなく。
“売れる”という経験が、一度でいいからしてみたい。
どんな気分だろう?
2008年5月21日 (水)
成り行きが厳しい
当初は、着付けのお免状を取るつもりはさらさらなかったのだが。
成り行きで、取らざるを得ない雰囲気になってきてしまった……。
着物と帯の組み合わせが二種類、制限時間は×分と△分かぁ……。
先日のお稽古で計ったときは一分オーバーしていた。
お試験までにあと○回お稽古があるそうだから、そのあいだに一分を縮めねば。
家でも練習したほうがいいだろうか……。
そう言えば。
車の免許を取ったときも、「(筆記試験に)万に一つでも落ちるのは絶対にいや!」という強迫観念にかられて、教本丸暗記くらいの勢いで勉強したっけ……。
母が「そんなにあせらなくても、ふつうは落ちないよ」と、毎日笑っていた。
要するに、肝が小さいのだ、私は。
本番に弱い自分を熟知しているので、事前準備の周到さで乗り切るしかない。
ああ。
みみっちくて格好悪くて、泣けてくる(涙)。
2008年5月19日 (月)
足袋のまちを歩いた
先日。
かつては8割のシェアを誇ったという足袋のまち・行田市で行われた、足袋蔵をまわるスタンプラリーに参加してきた。
イベント参加者の気持ちを実体験するためと、着物で参加すると参加費(と言っても200円だが)がタダになるからと、古い建物が見られて面白そうなのと、そんな感じで理由はいくつか。
ところで。
服装の洋装化で足袋生産がダメになったあとは、行田は被服産業で一時期栄えたということは、ルート内でも説明されていた。
のだが、家に帰ってきて家人から聞いたところによると、戦時中は被服工場がみんな軍需工場になって、近県含め勤労動員がすごかったらしい。
そんなこと、ひと言も説明されていなかったのだが、行田市的にはそれはあまり言いたくないことなんだろうか? あとから知ると、あえて触れなかったのだとしたら感じが悪いなあという気がするのだが。今回のコース中で紹介していた建物には、まさに勤労動員をしていた時代をバッチリ中に含んだ戦前から戦後直後にかけての建物も多かっただけに。
イベント自体はまあまあ楽しかった。
天気もよかったし。
時間配分も完璧で(自画自賛/笑)、ちゃんと予定時間でラリー完走。記念品の花をもらってきた。
コースを歩く中で、イベント参加者として感じたこともプラスの点・マイナスの点ともに多く、非常に勉強にもなった。
もちろん、かわいい足袋も買ってきた♪(品揃えは、思ったよりずっと少なくて拍子抜けしたが。……基本的に、あまり商売っ気を感じないイベントだった。良くも悪くも)
しかしあれだ。
建物好きとしては、個々の建物の見方や見どころをもう少し詳しく解説したものがほしかったという気がする。全部でなく、メインのいくつかだけでもいいので。
その辺、個人的にはちょっと消化不良……。
あと、行田のフライ!
ゼリーフライは途中で食べたけれど、フライを食べ損ねた!
これがかなり悔しい。そのうちまた行田にいかねば。フライを食べに。
ちなみにゼリーフライはおいしかった。おからとジャガイモでヘルシーだし、やさしい味わいで、好み♪
*メモ*
イベントの名称は「ぎょうだ 蔵めぐり まちあるき」。
スタンプのポイントは16か所。一つ一つのポイントが離れすぎていないので、歩き飽きる前に次が出てくるのがよかった。
主催はNPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワーク。
2008年5月 9日 (金)
より以前の記事一覧
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- 擬洋風建築にうっとり 2008.05.01
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